本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第18号』に収録された巻頭インタビューを、未掲載部分を加えて再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

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ルジャンドルのドグマ人類学

福嶋

このままルジャンドルの話に入らせてください。

西谷

昔、バタイユとレヴィナスを並べて論じた時に驚かれたんですよね。なんでそんなものを一緒にできるんだと。けれども、今では誰もが当然のように結びつけて考えるでしょう。

福嶋

あれは西谷さんが先駆けですよね。

西谷

それと同じで、私がルジャンドルをやっているというと、フランス人でも「バタイユやっていて、なんでルジャンドルなの?」と言われます。

福嶋

確かに不思議ですね。

西谷

エクスタシーの作家と一見牢固たる法制史家と。でも、ルジャンドルは法学者の間では「あれはみんなベルトの下の話だ」と陰口を言われて鼻つまみ者だったようです。つまり精神分析をもち込むから。まあ、それは冗談としても、これは先ほどプロティノスで話したことと同じようなことなんです。近代の西洋では、もちろん法哲学というのはありますが、哲学は法学者をほとんど排除してきた。法学は実用的な学問であって、哲学とは基本的に関わりがないとされてきた。けれどもルジャンドルは、人間の社会形成における法の役割みたいなことを考えた。なぜかというと、彼は精神分析を受けて、精神分析はまさに法の問題を扱っているということに気づいたわけです。いいかえれば主体の形成の問題を。結局、意識というのは、言語を軸にして展開されるでしょう。けれども合理的な言説が展開されると必ずそこから排除されるものが生じる。つまり、無意識というのは無意識が在るという話ではなく、意識ではないという話なんです。だから、言説が成立すると、必ずそれは言説ではない部分を排除しながら生み出される。そこに法が働いているというのが、ルジャンドルの発想の根底にはあります。

それは、形相と質料についても同様です。形相と質料を同じ概念として、形相はこうだ、質料はこうだと考えて思弁を組み立てるのではなく、質料というのは概念ではないから形相と並べて語ったらまずいんだ、と。形相は安定しているけれど、質料という形相は、自分が抱えている異物によって踊っているんだということを組み込まないとまともな思考にならない。このことと構造的には似ています。だから、私にとってルジャンドルの発想はバタイユ的なものとつながってくる。

福嶋

一般的にヨーロッパの「精神」と言うと、ギリシャ的なもの・キリスト教的なもの・ローマ的なものの三位一体でつくられているといったことは、ヴァレリーなんかも言っていますね。日本の知識人はキリスト教的なものやギリシャ的なものには関心を寄せますが、ローマ的なもの、つまり法に関わることは手薄だった気がします。ルジャンドルの導入はそういう意味でインパクトがあると思ったのですが。

西谷

まあ、それもありますね。でも、法そのものはローマの伝統ですが、その法を受けとめるのはギリシャの精神なんです。

福嶋

なるほど。ルジャンドル自身はローマ法の研究者ですよね。

西谷

そうです。ローマ法の研究者なんだけれど、それを受けとめるのはギリシャの悲劇の感覚なんです。ルジャンドルはありていにいってたいへんとっつきにくいんですが、たぶん一番わかりにくいのは悲劇のことだと思います。言説が展開されると、言説は必ず分断し、何かを締め出す。それが人間に悲劇や苦悩をもたらすというのが、ドグマ人類学の基本的モチーフと言ってもいい。

そして、これも “being-with”、“être -avec” ということと関係してきますが、人間というのは―社会という概念も定義し直す必要があります―必ず社会的なんです。なぜかというと、人間は生まれてきたら言葉を覚えますが、これはただただ他者たちから与えられる、あるいは刻まれるわけです。まわりで喋られている言葉に頭が組織されて、やっと自分で喋れるようになる。それが個的主体の形成です。一人一人は個として形成される。誰もがそれぞれの場でそうして言葉を身につけて、それで初めて「僕」と言えた時に、「君も参加者だね」と受け入れられるネットワークの中にいる。そういうふうに一人ひとりは完全に造形されていくでしょう。そして、人は必ず個であって、同時に一人一人は必ず社会化して形成される、つまりその時に社会も同時にあるわけです。

たぶん、哲学はこのプロセスを一切無視してきた。繁殖と主体と社会の同時形成ということです。だから、サンギュラリティとか単独性とか言っても、全く具体性がない。サンギュラリティというのはこうしてアトランダムに多数性として生まれる。そこを取り上げるのはドグマ人類学だけです。

それと同時に、人間は根本的に “being-with” なんだということです。必ず個別化されて、一人一人絶対的に違うけれども、社会化されている。そのことをこれほどよく示してくれる場面というのはないと思う。

例えば、「イヌ」と呼ばれている動物を見て、日本人だったら「イヌ」だと言わないといけないでしょう。「ンガ」なんて言っても誰にも通じない。コミュニケーションの中に入れない。「あれはどうして『イヌ』なの?」と言ったって、「何を言ってるんだ、イヌだからイヌなんだよ」と言われる。「ンガ」とか勝手に言っても通じない。そして誰が決めたかもわからない。仕方がないから「イヌ」と呼ぶ。そう言わないとコミュニケーションに入れない。これは完全な拘束だけれども、これを受け入れて初めて、言論の自由や表現の自由が成立する。だから、あらゆる自由の根本には、そういう原初の規範性の導入というのがある。その規範性のことをドグマ的というわけです。

福嶋

精神分析で言う「象徴界への参入」と関わることですね。

西谷

そうです。けれども、「象徴界への参入」のように機能化して言うと、それが実はこういうことなんだというのが見落とされがちです。ルジャンドルはそこにこだわっていて、そこから出発しているんです。いろいろな意識の段階で、あるいは社会性の段階で、例えば、イエスは神から生まれ、神が独り子として地上に遣わせて、全人類の罪を負って磔になって死に、その後復活した―これを三位一体の教義というわけですが、この教義が「ドグマ」ですね。

ドグマというのは、あらゆる証明を排除し、必要とせず、真理として通用するもののことです。あるいは、そこを出発点として様々な真理が証明的に設定される、そのベースのことをドグマというわけです。だから、例えば今の三位一体の教義を受け入れないとクリスチャンではないということになる。神学者はいろいろなことを言うけれど、それでも三位一体の教義を前提にして、そこから人間や世界を解釈する。そういうものがキリスト教ではドグマと言われてきた。この用語は近代では共産主義でも使われてきて、教条主義とか言われて、たいへん評判の悪い言葉になっていますが、言語の成立や、言語による人間化といったことは、ドグマ性ということを考えないと説明できない。

日本語でなぜ「イヌ」を「イヌ」と言うかを解明することが問題なのではなく、とにかくそういうふうに言うことを受け入れることでしか、人間の言語表現というのは可能にならない。その仕組みがいろいろなところに機能していて、それが人間の社会をつくっている。

福嶋

そうすると、やはり家族の問題が出てきますね。

西谷

それが逆転します。親がどれぐらい子に負っているかということです。最初の贈与ですね。ルジャンドルの本で最初に日本語に訳した『ロルティ伍長の犯罪―〈父〉を論じる』人文書院)の要点というのは、親がどれくらい子に負っているかということなんです。父親というのは実は、子にすごく負っている。子によって父という場を占める。それが担いきれないための狂気というのがロルティのケースです。

福嶋

それは大事だと思うんです。つまり「象徴界への参入」というモデルだと、子どもを親の側へ引き寄せていくということになってしまうので、今おっしゃった子どもからの贈与というベクトルが消えてしまいますよね。でも、子どもがいないと親にはなれない。

[後編 目次]
■1 ルジャンドルのドグマ人類学
■2 フマニタスとアントロポス
■3 アントロポスからフマニタスへの働きかけ
■4 カズオ・イシグロと医療思想史
■5 68年との距離と日本の現代思想
■6 教師と私生児


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