唯物論とイスラム国

福嶋

それは形相の光から逸れるような唯物論的思考につながると思うんです。つまり「低次唯物論」ですね。そこから強引に現代的な問題に差し戻すと、最近フランスや日本の若い世代からは「思弁的唯物論」というかたちで、新しい唯物論を再構築していこうという動きがあります。それはバタイユの「低次唯物論」からは、どのように見られるでしょうか。

西谷

関心の根っこは通じているでしょう。でもバタイユの唯物論は、構築するものではなくて、モノのように作用する言説をぶつけるでしょう。特に『ドキュマン』の頃は。それを考えると、思弁的唯物論はバタイユ言うところの観念的唯物論の別バージョンに過ぎなくなってしまうと思う。「思弁的」というのはいいですけれどね。

福嶋

バタイユの中に包摂されるような理論であるということですか。

西谷

うーむ、バタイユは哲学的に納得できるような理論化を排除していると思います。そうすることで、言説にとり込めない「外部」を留保しているんですね。あるいは言説を外部に開いている。要するに、物質というものを概念化しようとする思考に抗したのがバタイユでしょう。

福嶋

あらゆる概念から逃れ去ってしまうような、ある種の汚物のような「もの」の世界ということですね。

西谷

そう、「もの」って思考の汚物なんですよ。これは少し面倒な議論をしなければならないことですが、乱暴に言ってしまうと、思弁的唯物論がやろうとしていることはわかるような気がします。でもその「新しさ」というのは、哲学の意匠にはやりすたりがあって、構造主義とかポスト構造主義とか、そのまたポストとかいう図式を立てた時にそのなかで意味があるものであって、つまりは「業界」で意味があるだけであって、哲学業界外ではどうでもいいことだと思う。現在のコンテクストで哲学の根本課題には触れているとは思うけど、焼き直しでしょう。精神分析の登場以降、あるいはラカン以降、底の抜けてしまった「実在」ないしは「物質性」との関係を概念的思考はどう付けるのか、その課題をAI・人工知能の時代にどう適合させるか、というような関心でしょうか。世界の物質的というより技術的状況が変わってはいるけれど、プラトン以来これまで周期的に帰ってきた問題の現代版ですよね。バタイユは近代的思考が所与だった状況でそれと格闘して、哲学的思考の非完結を身をもって示したのだと思います。

福嶋

もう一点、これもかなり無理やり現代に引きつけますと、バタイユはアセファルという秘儀的な結社をつくりますよね。アンドレ・マッソンが描いたような無頭の怪物、それがアセファルのイメージですが、あえてその現代バージョンを考えてみるとイスラム国が近いんじゃないかという気もするんです。ある種の秘儀的な集団でもあるし、メディアを通じて斬首の映像などを流すわけですが、あれもスペクタクル化された供犠(サクリファイス)と言えないこともない。もともとバタイユはカトリックに非常に近かったわけですが、21世紀の世界では彼の思想はむしろイスラムと関係する気もします。そんなことはありませんか。

西谷

それはどうかな。やはりカトリックはイスラムを理解するのは難しいんじゃないですか(笑)。フーコーもそこは間違えたでしょう。それと、イスラム国とアセファルを一緒にしては、バタイユがかわいそうだと思う。

福嶋

そうですか。

西谷

だって、イスラム国がやっていることは、完全にアメリカの狂気の鏡ですから。一方は剥き出しの力の論理で自己正当化し、あらゆる現代的破壊力を動員する力の行使に対して、それをやられる方には、そもそもカラシニコフとロケット砲、それに誰が送ったのかトヨタのランドクルーザーくらいしかないわけです。アメリカは、空爆を始めて3ヶ月で少なくとも6,000人の戦闘員を殺害したなんて公式発表するでしょう。その6,000人というのは一体一体数えられたわけではなく、爆撃して10人が吹っ飛んでもバケツ一杯の肉片が残るかどうかわからない。高度にIT化された兵器で、生きた人間がバラバラにされる。それが文明を名乗る。それに対して、彼らは一切反撃ができない。そうしたものすごく不均衡な抑圧状態で、敵の関係者を1人か2人捕まえたら、1人殺したのが100倍ぐらいの効果をもつようにしないと収まらない。だからインターネットを使って誇示する。あれは完璧に超国家アメリカのチョー技術的暴力の裏返しですよ。イスラムともサクリファイスとも何の関係もないと言いたいですね。

福嶋

ただ、バタイユはわりと腰が軽いというか、例えば、中国で処刑されている青年の画像なんかを見て、それにすごく震撼させられたりするところもあるわけでしょう。もちろんカトリック文化圏の人なんですが、同時に、異文化で起こっているある種の残酷な行為に対する感度も発達していた人ではないかと思うのです。そのあたりはどうでしょうか。

西谷

中国のあの刑罰―あれは中国で昔からある凌遅刑というやつですね―の写真については、バタイユは自分が完全におかしい時に精神科医に見せられたわけです。それに感応するという状況に彼自身が落ち込んでいた。けれども、その感応は別の時ならどうか。広島で一発の原爆で一瞬で10万人が死に、それから生き延びた人たち―生き延びたのは死ぬまで苦しむためですが―の悲惨なルポルタージュ(ジョン・ハーシー『ヒロシマ』)を読んで感応し、「ヒロシマの悲劇」に関する長大な論文を書く。それがバタイユです。レヴィナスの「ある」を長々と論じたのはその論文ですね。これは世界の知識人の中でも珍しい。

それから、異文化ということで伝記的に言えば、西洋世界からの脱出願望があったみたいだから、若い頃にチベット語を学んだりしていますね。福嶋 中国語も学んでいましたよね。

西谷

続かなかったでしょう。最初の奥さんはルーマニア人で、ある種の東方嗜好みたいなものもある。でも実際は中国までは行けなくて、結局レオ・シェストフに出合ったりしてロシアどまりということになる。それでも、先ほど話題になった神風特攻隊のような、「コナトゥスがないということもあり得る」ということへの理解はあると思います。「死んで生きる」の神秘家たちの衣鉢を継ぐ、と言っていますから。アメリカのように「コナトゥスがない!」と言ってパニックになるようなことはない。けれども、またそれが「不可能」だとも言っている。イスラム国の場合とはだいぶ違うと思います。

[中編 目次]
■1 90年代の「戦争論」と9.11後の「テロとの戦争」
■2 現実の戦争と絶対的戦争
■3 合理性を支えるコナトゥス
■4 プロティノスからバタイユへ
■5 唯物論とイスラム国
■6 『アメリカ─異形の制度空間』をめぐって
■7 ジャン=リュック・ナンシーの共同体論
■8 存在論的な技術論への留保


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