現実の戦争と絶対的戦争

福嶋

17世紀のウェストファリア条約が国家間戦争のモデルを確立したわけですが、しかし第二次大戦を契機にして、西谷さんの言葉で言えば「世界化」が起こってくるわけですね。それによって、地球全体が一つの平面に覆われていくということになる。それがウェストファリア体制を崩した最大の要因とお考えですか。それともやはり近年のテロとの戦いがそれを加速したというべきなのでしょうか。

西谷

世界戦争によって国家間秩序というのは一度破綻するんだけれど、その後、冷戦で凍結状態になる。それは本当に「冷戦」です。つまり、熱核戦争で溶解の危機に瀕した国家間抗争が凍結されてきた。けれども、それを解凍したらどうなるのか。エドガー・アラン・ポーの「ヴァルドマール氏の場合」という短編があります。死ぬ間際に催眠術をかけてもらって死を押しとどめるのだけど、6カ月も経つと「苦しい、もう死なせてくれ、催眠術を解いてくれ」と言う。そこで術師が催眠術を解くと、ヴァルドマールの遺体は一挙に崩れて形がなくなってしまうという話です。

福嶋

それは面白いですね。

西谷

「テロとの戦争」というのは、古典的な国家間戦争がそんなふうに腐乱死体になってしまったものを、ドーピングで蘇らせたようなものだと言っていいでしょう。ニューヨークの9.11で、アメリカが建国以来初めて爆撃されてパニックに陥って、とにかくやられたから何倍返しもする、相手に形がなくてもいい、犠牲を出した被害者にはあらゆる権利があるという論理で、アフガニスタンでもイラクでも、一方的に戦争を仕掛けられる体制に持っていった。そんなことはどの国もできなかった。それが正義にされてしまった。それほどあの9.11というのが決定的だったんですね。

近代の戦争には、クラウゼヴィッツの「絶対的戦争」という観念があります。これは何かというと、戦争をやるぞ、やるぞと言って、お互い牽制し合う。そして実際に戦争になるとしても、戦争というのは「別の手段をもってする政治の延長」で、武力を行使する外交の非常手段ということです。それがクラウゼヴィッツの戦争論の枠組みであり、古典的な戦争です。そこでは戦争も一つの手段だから、ある政治的な獲得目標があって、それを達成できるか、失敗するかというのが国家間戦争であって、最終的には政治に収まる。それが「現実の戦争」なんだけれど、クラウゼヴィッツはその他に、戦争の内在的な傾向というのを見ていた。

それは、武力や破壊の競り上げが暴走するということです。相手が100人殺したら、こちらは150人殺す。すると、向こうは200人殺す。そんな具合に暴力的破壊を競り上げても、それは政治目標獲得の手段だから、現実的には「ここらで手を打っておこう」とか「これ以上やっても見込みがない」ということで戦争は終わる。

けれども、その競り上げの昂進が政治的な配慮を吹き飛ばしてしまう可能性はある。すると破壊の暴力は盲目的に極限化する。つまり現実的な配慮を超えて、相互の破壊そのものが目的化してしまうのですね。これを純粋戦争とか絶対的戦争というわけです。剥き出しの戦争ということですね。クラウゼヴィッツの考えでは、それは理念としては考えられるけれども、現実の戦争はそうではないということでした。

ところが「世界戦争」で核兵器が登場する。それは、四の五の言わずすべてを殲滅してしまう兵器です。ということは、そこで絶対的戦争が現実化してしまったということです。核兵器は戦場で使う武器ではなく、そこに兵員や物資を送る生活空間全体を一気に無化する絶対的兵器です。そこにはもはや政治はなく、相手の殲滅しかない。交渉相手そのものを消滅させる。戦争はそういう段階に入りました。その戦争を、それでも何とか抑止できるというのが、抑止力の理論ということになる。

福嶋

MAD(Mutual Assured Destruction=相互確証破壊)ですね。核兵器を突きつけ合いながら、お互いに理性があるということを前提にして、ぎりぎりのところで破局を避けるという戦略。

[中編 目次]
■1 90年代の「戦争論」と9.11後の「テロとの戦争」
■2 現実の戦争と絶対的戦争
■3 合理性を支えるコナトゥス
■4 プロティノスからバタイユへ
■5 唯物論とイスラム国
■6 『アメリカ─異形の制度空間』をめぐって
■7 ジャン=リュック・ナンシーの共同体論
■8 存在論的な技術論への留保


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