本記事は立教比較文明学会紀要『境界を越えて──比較文明学の現在 第18号』に収録された巻頭インタビューを、未掲載部分を加えて再録するものです。前編、中編、後編の3パートに分けて掲載します。

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90年代の「戦争論」と
9.11後の「テロとの戦争」

小野

少し話を戻すと、当時、駒場ではまず語学の授業を担当してもらってから講義をしてもらう、みたいな感じだったんですか。

西谷

そうですね。私の場合はフランス語を2年教えた後、明治学院でサバティカルがもらえることになったのでそれで辞めるつもりでいました。ところが、ちょうどその頃、駒場では小林康夫さんたちが中心になってカリキュラム改革をして、休み中に小林さんから、「現代思想」という講義科目をつくるから「戦争論」のようなものをやらないかと提案されたんです。『戦争論』を単行本にした頃でした。「現代思想」という枠で好きなことをやっていいというから、パリから戻ってきてその後6年間、戦争論や世界史論といった講義をやりました。

小野

ちょうど僕が大学院生の時で、大教室が一杯になって入りきれなくなっているのを見にいったのは覚えています。それをもとに『夜の鼓動にふれる─戦争論講義』(1995、東京大学出版会)が出たんですね。

福嶋

当時はちょうど加藤典洋さんの『敗戦後論』(1995、講談社)も出た時期で、死者の追悼の問題や、戦後日本をどう総括するかといった問題が浮上していた時代ですよね。そういうものとある程度思想的にリンクするような形で『夜の鼓動にふれる』が出た。この本は2015年に改めてちくま学芸文庫から再刊されましたが、今また戦争の問題がメディアをにぎわすようになっています。西谷さんは一貫して戦争について考えてこられた立場から、20年前の議論と今日の議論とはどういう違いがあると考えますか。

西谷

『戦争論』(1992、岩波書店)を書いた時は、冷戦が終わり、湾岸戦争があって、という時期で、『夜の鼓動にふれる』は、これで戦争は腐乱死体になる─つまり国家間戦争という枠組みは解体されて、とんでもないことになるということで終わっています。そして2000年代に入って、「テロとの戦争」という新しいレジームが始まった。それが大きな変化です。

我々の頭の中にある「戦争」という概念は、常に近代の国家間戦争です。だから、その概念の歴史性をいったん取っ払って戦争を考えるというのが、『戦争論』や『夜の鼓動にふれる』の姿勢でした。いわゆる戦争がテーマになる本では、戦争というのはいつも前提として語られます。けれども、戦争について考える時も他の何かについて考える時も、人間の思考というのは、まず概念化があるわけですが、その概念はある歴史的な社会状況の中でつくられる。そしてその概念が流通するようになると、それがあたかも昔からあり、かつ普遍的な概念であるかのように通用して、誰もがそれに乗っかって話をする。

けれども、哲学的思考というのはまずそこのところ、つまり概念形成を問わなければいけない。戦争なら戦争というのが、今のように一般的に受け入れられているような形で把握されたのはいつかとか、それはどう機能してきたかといったことを検討した上で、概念を相対化しておいて、起こっていること論じるわけです。そうでないと、既成概念に振り回されて、起きている出来事を取り逃がしてしまうことになる。

だいたい、日本語の「戦争」という用語自体が明治の初めにできたもので、それ以前の日本では、集団間の武力抗争は全く違う形で表現されていて(イクサ、役、乱、等)それにはそれぞれ意味と使い方があった。けれども近代の戦争という概念がつくられると、逆にさかのぼって「弥生時代にも戦争が」とか言ってしまう。けれども、記述としてはそれは倒錯しているわけですね。

福嶋

近代以前の日本は朝鮮を侵略したりもしたけれども、基本的に内戦しかやってないというところがあるわけでしょう。

西谷

そうですね。ただその「内戦」という概念も、17世紀以降にヨーロッパで国家間秩序というものができて、戦争が国家間の対外抗争になり、そこから照らし返した時に内戦とか内乱とか言われるようになる。内戦とはそのようにして語られる概念なわけです。

戦争という言葉に戻ると、日本がヨーロッパ的な国家間関係(ウェストファリア体制というものですが)に入ることになった時に、武力を動員して戦うということが公式には国家間に限定されるようになり、ヨーロッパの “war” に対応して「戦争」という概念が必要になった。それは当然ながら中央集権国家の形成と結びついていて国家統合を必要とするから、ナショナリズムとも結びつく、といった脈絡がある。それはいわゆる近代の現象ですが、その近代の枠組みを解いていったら、これはどういうことなのかというのを考えて、そこから近代以前の同様の事象も近代以後の戦争も考えるということになるわけです。

そういう観点からすると「テロとの戦争」というのは文字どおり画期的で、これはもはや国家間戦争ではない。では何かというと、当然ながらいわゆるグローバル化と結びついて、その時に浮かび上がる敵対関係は国境を越えるだけでなく、国内にも及ぶわけです。要するに、国境という枠が武力抗争にとって意味を持たなくなるけれども、軍事力を発動するのは常に国家である、という矛盾状況が生まれる。その時、戦争の敵対関係はもはや対等ではなく、一方では国家のあらゆる軍事力の発動が合法化され、それが正義になる。もう一方はというと、国家の法の外に置かれていて、何があっても全部無法だということになる。そんな敵はもう問答無用で殲滅するしかないということですね。問うべきことは、そこでいったい何が起こっているかということなんです。

[中編 目次]
■1 90年代の「戦争論」と9.11後の「テロとの戦争」
■2 現実の戦争と絶対的戦争
■3 合理性を支えるコナトゥス
■4 プロティノスからバタイユへ
■5 唯物論とイスラム国
■6 『アメリカ─異形の制度空間』をめぐって
■7 ジャン=リュック・ナンシーの共同体論
■8 存在論的な技術論への留保


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